浜田で活躍した人
 
田中 清見
石見神楽を愛し転換期を支えた舞の名手
田中 清見 (たなか すがみ)
 
略 歴 (1814-1897)
1814年 今の浜田市大辻町に生まれる
1820年 6歳で下山稲荷神社の神職となる
1861年 浅井・松原祇園社鼓頭になる
1871年頃 明治政府より神職演舞禁止令が出される
 浜田市が誇る伝統芸能、石見神楽。神楽は元は神に捧げるため、神職だけが舞うものでした。明治になると、政府により神職が舞うことを禁止され、転換期を迎えます。田中清見は、新たな担い手となる氏子に石見神楽を教えた舞の名手です。
 1814年、浜田藩士の進藤家に生まれた清見は、神職である田中家の跡継ぎとして養子に迎えられます。6歳で下山稲荷神社の神職となり、幼いころから舞の上手さで評判でした。太鼓にも秀でており、47歳で浅井・松原祇園社の鼓頭を務めるほどでした。
 その後1871年に明治政府が出した神職演舞禁止令により、神楽は神職から氏子が舞うものへと変化することになりました。この変化に伴い、浜田の国学者藤井宗雄らは石見神楽の新しい台本を作ります。これは、乱れた口上(台詞)を改め、振り付けや衣裳を改善するなど、石見神楽に芸術的な気品を与え、郷土芸能として育成しようというものでした。このとき、速いテンポで舞いを展開するのが特徴の八調子が取り入れられました。舞に堪能な田中清見は大変熱心に細谷社中の人々へ石見神楽を教えました。徒歩で往復3時間の道のりを通い、一人ひとりが正しく舞うことができるようになるまで根気強く教え続けました。
 田中清見は生涯石見神楽を愛し、素晴らしさを伝え続けました。その伝統を守る心は現在まで受け継がれています。細谷王子八幡宮境内には細谷社中の人々によって「石見神楽の師 田中清見の碑」が建てられ、大辻町大元神社にも有志により建てられた碑を見ることができます。
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