浜田で活躍した人
 
岸 静江
出典:扇原関門の岸静江図『濱田会誌』第三號 明治25年
石州口の戦いの際、命を懸けて関門を守ろうとした幕末の浜田藩士
岸 静江 (きし しずえ)
 
略 歴 (1836-1866)
1836年 今の群馬県に生まれ岸家が仕える越智松平家の国替えにより浜田に引っ越す
1860年 浜田藩第4代藩主松平武聡の近習となる
1866年 岸家の家督を継ぐが、石州口の戦いで討ち死にする
 岸静江は第二次長州征討における石州口の戦いで、単身で関門を守ろうとして討ち死にした幕末の浜田藩士です。
 名を国治といい、1836年、越智松平家に仕える岸家の長男として今の群馬県に生まれ、その年の国替えにより浜田に引っ越します。少年期は優秀な成績で表彰されており、江戸への遊学も経験しました。
 1860年に浜田藩第4代藩主松平武聡の近習として召し出され、1866年に岸家の家督を継ぎ禄高110石の物頭席となります。この頃幕府と長州藩との間が険悪になっており、浜田藩は津和野藩との藩境に扇原関門(現在の益田市多田地区)を作り、非常時に備えました。岸静江はこの関門の守備を命じられます。6月16日、大村益次郎率いる長州軍の接近に対し、配下の武士5人と付近の村の農民を加え20名ばかりで関門を固めました。正午頃には800名(1,200名とも)の長州軍が開門を迫りますが、岸静江は断固拒否し、守備隊と共に応戦しました。しかし多勢に無勢、敗色の色が濃くなる戦況に部下と農民を退去させます。ただ一人で関門を死守しようとしますが、至近距離から撃たれた弾は胸腹を貫き、長槍を持ったまま息絶えました。
 岸静江は浜田藩の関門を命を懸けて守ろうとした勇敢な忠義の士として、味方のみならず敵からも称えられ手厚く葬られました。墓所は益田市多田町と浜田市真光町観音寺にあります。
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